知識思考ノート

気に入った知識や思考を書いてます

食べて寝るだけ

 

 食べて寝るだけはまず

誰もがやることだし、仕事や学業を

してようがいまいが先にやるべきことである。

 

 ダメな人は何をやってもダメなんて

ことがあるけれど、まず食事と睡眠から

出来てないなら当然なにもできない。

 

 

 疲れたら寝る。元気ないなら食べる。

これを徹底してからじゃないと何も

始まらない。

 

 朝食抜きましたとか、寝てないとか

これは人生をなめている。食欲がなくても

牛乳やスープくらいは飲まないと

脳みそがエネルギー不足になる。

 

 病気の人や仕事で忙しいから

睡眠が上手く取れないなんて

生活を改めた方がいい。

 死人の真似をして10分か20分横になって

いれば、少しだけ回復する。

 

 

 睡眠が上手く取れないと

人生が楽しくなくなるので、

死人のように横たわり力を抜くのは

生きるための必須の技能である。

 

 

 このブログはそのうちやめる。

書いている私に何の現実的な利益もないので

やめたい。

 

 そもそも、書きたいから書いているだけ

だったのでやめたいからやめよう。

 

 

女子差別に関して

 

 世の中の人は、男と女で

争うのが好きだ。

 

 この現象は思春期の始めごろに

顕在化し、すぐにおさまるものである。

 

 

 人間でありながら、男と女に

分かれるという神秘に対して人は

困惑しパニックになる。

 

 そして、性別というものの

神秘性を考えなくなる。ただの肉体の機能で

あると考えるようになる。

 

 

 しかしなぜ、性がからむスキャンダルに

人はいつまでも食いつくのであろう。

 

 神秘性を失わせたところで、それは

人間の計らいに過ぎない。なにも失われてはいないのだ。

 

 

 大学入試で、女性やスマートに試験を通過できない

男性は減点されていたそうだが、私が当事者であれば

もちろん怒ったであろう。

 

 だが当事者ではないので、怒らない。

 

 私には当然に思えた。なぜなら、社会はそういうものだから。

そこから社会を変えようと革命に参加する人がいる。

社会を変えずに、賢く立ち回る人がいる。

 

 

 女子だから差別されているのではない。

浪人男子もなぜ減点したのか、これは育ちが悪いから

ではないかと思われる。

 

 つまり、お行儀のいいエリートを求めていた。

本当にエリートなら女性でも医者になっているだろう。

 

 女子差別を大義名分として

上と下の争いになっている。

 

 

 まるで、思春期の子供のようではないか、

そうなのだ。人間は知識や経験が増えても

本質は子供のようである。

 

 だから、本当に女性としてしっかりしている人は

差別がどうだと暴れない。したたかに社会を利用しながら

夢を実現する女性はいくらでもいる。

 

 男性でも同じことで、女子差別をかかげて

やって来るよく分からない集団に怯えたりしない。

優しく接するだろう。

 

 

 本当に社会を変革したいのなら、

大人にならなくてはならない。それは

子どもを知ることである。

 

 女子差別を理由に話をそらしている大人を

知ることである。

 

 女に怯えた弱気な男、自分が弱いと

勘違いしている女、これらは非常に醜い。

 

 

 エリートの思うつぼであるが、

知らないなら知らなくていいだろう。

 

 医者になりたいなら、民間療法家の道もある。

医療界を改革したいなら、政治家に

なるがいい。

 

 差別が許せないなら、天使になるといい。

天使にはいつでもなれる。行動に移すのは

苦行になりそうだ。

 

 

 戦争の中で死んでいった兵士の男たちと

同じように、革命のなか、炎のなかで殉教した

ジャンヌダルクとなると言うのか。

 

 高潔で強かった者たちの最後が

それなのか。残念ながらそれなのである。

 

 彼女は、天の声を聞いたそうだから。

人間的な幸せはもちろん不要であった。

自身でそう言ってのけるだろう。

 

 

 男など弱い。ただの人間だ。

女も弱いと言えば弱いし、場合によっては

男より十分に強い。

 

 そして、本題の女子差別問題であるが、

これはエリートの勝利である。

 

 どうでもいい有象無象が思春期の

子どものようにパニックを起こし、

本題が医療界へ入る者への選別であるのをすっかり

忘れているから。

 

 

 この様では、差別はなくならないだろう。

パニックを起こさず知恵によって苦難を乗り越えようと

しているのはエリートの方だから。

 

 だから、当然だと思うのだ。

エリートになるとはそういう冷徹さだから。

 

 革命側にエリートの素質は無かったようで

なんだかんだ言って平和である。

 

 

 行動に移さずとも、天使のような女性は

男をまったく自然に従わせるものだ。

 

 勇敢でたくましい男性に心躍らない女もいない。

こういった神秘性を知らず、性別を野性の下品なものだと

考えたのがそもそもの誤りである。

 

 見た目や身分だけが性別ではない。

ジェンダー思想の本意は、精神に宿る

男性性/女性性の美しさと、自然に人を惹きつける

強さを知ることである。

 

 

 長い説明になるのでまた今度にするが、

この神秘的な性の作用は、生産性の根源となる。

 

 

悪に実体はない

 

 本当に悪と呼べるのは

実体のないものである。

 

 貧困者が卑しい性質となり、

育ちが良すぎると人を見下すのは

避けにくい。

 

 しかし、これらの悪しき性質は

実際の状況から来ているもので、

本質的な悪と混同すれば、本人は

どうしていいのか分からず

更にエスカレートしかねない。

 

 

 本質的な悪とは、実体がないから

悪なのである。

 

 例えば、必要がないのに人を攻撃したり

すれば生き物のレベルで悪なのである。

 

 

 だが、こういった抽象的判断を

正確に行える人は少ない。

 よって罪を憎んで人を憎まずと、

実際の行い自体を非難するのが最も

間違いをしない。

 

 そこから、偽善者と悪人なら

前者の方がまともであると言えるのである。

 

 

 間違いを行うものと、間違いをうわべだけ

でも無くそうというのは、どちらがマシかは

言うまでもない。

 

 悪人は自分に正直に生きていると言ってのける。

確かにそうかも知れない。だが、間違っている事を

なんとも思わないのも認めているのだ。

 

 人間的事実はいつも間違う。

気分の揺れによって、ちょっとした誤解によって、

自然の事実を否定することによって。

 

 

 社会を信じている者は間違う。

社会は従ったり、変えていくものであって、

信じるべきではない。

 

 信じるべきは当たり前の事実である。

どんな考え方をしても否定できないもの。

 

 

 そこから、暴力が真実であると

導き出す者がいる。これは一理ある。

 

 瞬間的な現実として、暴力は否定が

できない。それでも、野獣ですらこういった

判断はしない。

 

 生きるという行為は、自己保全と生殖から

成り立っており、どちらを優先しようとも

暴力が真実とはならないのである。

 

 

 策略や社会と、暴力が結合した時には、

極めて不安定な状況が出来上がり、

まったく生存と生殖には合致しない。

 

 宗教戦争が極めて醜いのは、

実体がない思想の争いが続き、

結局は暴力で決着をつけるという

生き物としての悪の極みだからである。

 

 平和への願いは宗教以前に、

普通の生き物としての希求で、そこに

思想はないが実体はある。

 

 

 とにかく、悪と呼べるのは実体のない

ものでしかない。

 

 そこから、祈る行為が出てくる。

暴力も社会も知性も解決できない問題に対しては

祈ることしか出来ない。

 

 1900年代のある優秀なキリスト教伝道師は、

これを絶えず祈ると表現した。

 

 

 平穏な生活を送ること自体が、絶えず祈る

行為なのだと言った。

 

 祈りを誰にどうやって捧げるかは全く

問題にしていない。ただ平穏に生きるのが

いいですよと伝えたかっただけだろう。

 

 神や正義のもとで間違いを犯すものには、

絶えず祈らなくてはならなかったのだ。

 

 

 思想の争いに終わりはない。

アサシンも戦闘員も思想から生まれる。

 

 自然にいるのは、ただのハンターである。

どこにでもいる、生きる事を目的とする

狩人である。

 

 人間を農耕種とか狩猟民族とか分類する前に、

ただ生きていることは忘れられている。

 

 

 宗教が生きる手段であるなら、狩りを

やめて祈らねばならない。

 

 しかし、宗教権威に頼る者はこれを

忘れている。祈りを失った哲学や宗教には

間違いが含まれ、いずれ暴力となる。

 

 権威は暴力の精神化なのを知らないのである。

信じてはならない。祈りを忘れた教義や

平穏を失った人間を。

 

 

 それを信じて損をし、殉教までして浄化する者を

天使や仏と呼ぶのである。

 

 尊敬に値するか、有難い存在か、それは

人間が判断することではない。彼らは天界のために

生きたのだから。

 

 決めるのは天界であり、人間はその偉業に

対して否定できぬ判決を受けるのである。

 

 

 人間が人間として生きる事に罪は無い。

実体なき悪が実体なきものにより滅びるだけである。

 

 人が天界を考えることは出来ない。

現実として、知らないうちにその罰と恩恵を

受け取るだけなのだ。

 

 実体がないのと存在がないのは違う。

普通の人間は実体を求め、本物の悪や善は

実体のない存在を滅ぼしまた創造する。

 

 

 祈りや平穏な生活は、これら

人智を超えたものから恩恵を受けるための

最善の手段である。

 

 

悲しみや苦痛への最も単純な対応

 

 まず、パニックの原理から説明したい。

 

 パニックとは、ギリシア神話の「パン」という

迷惑な神が、意味もなく人や動物に驚きを与えて回る話が

語源である。

 

 まるでパンが走り回っているように、

意味もなく恐怖におののくのがパニックである。

 

 

 だから、悲しみや苦痛によって人が

打ちのめされるのは、その苦しみ自体ではなく

追加で乗っかる恐怖からである。

 

 なので苦痛や悲しみをただ、そのまま

悲しみ苦しんでじっとしていれば

現実の不幸をただ知ったにすぎず

パニックにはならない。

 

 

 感情はe-motionすなわち

動きを作り出すエネルギーだから、

どれだけ理屈が単純であっても

それに抗うのは簡単ではない。

 

 だから、考え方としては

「何もしない」のが最も単純な思考であり

同時に行動である。

 

 

 悲しいことや苦痛を、喜ばしいものと

考えるのは道を外れがちになるので

おすすめできない。

 

 ただ、じっと僧侶のように

座り、祈っているだけが単純かつ

最短で苦しみを軽減させる手法である。

 

 現実に打ちひしがれた人間の話だ。

出来ることがあるならやるしかない。

出来ないなら何もしないのがいいのだ。

 

 

 悲しみや怒り、激しい苦痛も

長くは続かない。体はそれを軽減するように

なっている。

 

 長く続くのは、頭が良すぎるとか

環境があまりに不健康であるかだろう。

 

 悲しいなら悲しんでいいのだ。

苦痛は鎮痛剤を飲もうが飲まなかろうが

急になくなったりしない。

 

 

 それが人間にとって、何も生活を

害しないのも事実である。

 

 苦痛は、不健康を伝えているだけで

人間を苦しめたい訳ではないからだ。

 

 悲しみを悲しむとき、苦痛を苦痛として

そのまま受け取るとき、すぐにその

電気信号は役目を終える。

 

 

 ただ、睡眠不足だとか、嫌な事があったとか、

機嫌がわるいとか、天気が良くないとか

考えるだけ無駄な現実へと帰るのである。

 

 現実はつらいものではない。

つらいのは現実に対する抵抗であり

そのままの今現在に憂うべき事など

発生しない。

 

 悲しいのだから悲しいのであり、

苦しいから苦しいのである。

 そして、極めて過酷な状況では

それら感情すらもかんじずに必要なことを

して生き物は生き延びる。

 

 

 現実が過酷であったり、選択肢が少ないほど

苦痛は減るのである。

 幸せな人間ほど、ずっと仕事に打ち込んでいたり

するが、これも同じ原理であり、小さな苦痛を

かんじるだけの余裕を自分に与えていないからだ。

 

 

とんでもない馬鹿への昔からの対処法

 

 世の中いろんな人がいる。

いくら綺麗ごとを言っても、嘘をつく人や

みんなが損をする行動を続ける人は

実際にいる。

 

 こういった人間界の厳しい現実に

対して、昔からの有益な答えがあり、

本当の問題は馬鹿な人ではなく

馬鹿な人への対処法を忘れることである。

 

 

 宗教やことわざのなかに答えがある。

「人のふりみて我がふり直せ」とか

「すべては仏の教え」とか「神の試練」とか

これらは何も、神や仏に従う事を要求している

のではない。

 

 その言わんとする事は、相手が馬鹿だと

思うなら、同じことをしてはならないと

当たり前のことを権威付けて言っているだけだ。

 

 

 仏様辞典みたいな本があって、

それを覗いてみると、書かれていたのは

おかしな人間の姿そのものだった。

 

 嘘ばかりつくことで真実を教える仏、

いつも怒ってばかりの仏、知恵はあるが

厳しく冷たい仏。

 

 人間はそれら仏から、教えを頂いている

という考え方なのである。

 

 

 本当に頭がどうかしているとしか

思えない、ある意味で強い人を相手にした事が

ある人にはこの考え方が救いとなるはずだ。

 

 人間として道をちょっぴり外れている、

そういった仏街道を散歩してしまっている者から、

教えを引き出すことが出来れば、賢者の思考なのだ。

 

 

 もっとも、これは簡単なことではない。

多くの人が堕天使や生き仏につられて

道を誤る。

 

 暴力や、変な薬にとりつかれている

人間はその典型で、自分が今まで受けてきた

良からぬ教えをそのまま受け入れてしまっている。

 

 

 間違っていると分かっているからこそ、

理屈は通らず、感情は間違いを正そうとすら

意図しないのである。

 

 だって、間違いを教えられた人間は

まるで惨めそのものだと感じざるを得ない。

この事実を直視するのは極めて辛い思考である。

 

 だが、惨めなのは間違いを教えられた事ではない。

間違いを行うことである。

 

 

 馬鹿を見たら、真似をしてはいけない。

自分が馬鹿なら、昨日の自分の真似をしてはいけない。

 

 なにをもって、人を馬鹿だと判断するか、

これは個人の問題であり、馬鹿だと思うなら馬鹿で

いいのだ。

 

 相手を馬鹿だと思うくらいだから、

知恵の多寡よりも、まず嫌いであろう。

 

 

 優れた著作を残した哲学者たちは、

最後に同じことを言っている。

 

 愛が最も役に立つもので、

それが人を救うという、実に当たり前の

理屈にたどりつくのである。

 

 当たり前のことをどんな言葉で

人に伝えるかが、哲学者や思想家の本当の

使命であり、回りくどい仕事なのだ

 

 

 頭で考えたとき、馬鹿な人や、果ては

この世界自体に怒りすら覚えるように

なるだろう。

 

 それを頭で修正すると、「すべては試練、教え」と

なる訳である。

 

 もっとも、愛があるなら

馬鹿かどうかは関係がない。

 

 

 愛や慈悲をもって人に接するか、

すべては学習すべき授業であると

思うのが賢い人の対処法なのだ。

 

 そもそも、あんまり賢いのも

よろしくない。何であれ、自分の生活に

役立てるという意思だけが支えとなろう。

 

 重要なのは、馬鹿な人ではもちろんないし、

自分が賢いかどうかでもない。

 幸せになろうという当たり前の

方向性が少しだけ人生をマシにする。

 

 

 成功者とか、幸せな人とは、

つまりは当たり前の道から外れずに

いたという、単純ながら最も賢い選択を

取り続けた普通の人なのだ。

 

 

AIの無知

 

 人工知能に欠けている知性は

現実的な形状認識である。

 

 

 これを人間レベルに例えるなら、

目の前に見える形や色ばかりにとらわれ

その機能を知らないという事になろう。

 

 

 現実に存在するヒトの場合、

想像力によって、実際に現前しない

形状までも知覚する。

 

 これが狂気と無知の温床でもあり、

神の意思たる正確な理知への希求でもある。

 

 

 AIか人間かを識別するのに、

形状の認識を求めるシステムが導入されている

ようだ。

 

 車の形をすべてクリックしないさい。

信号機をすべてクリックしないさい。

 

 これがまだAIには出来ないようである。

AIにとって、画像は複雑すぎる処理なのである。

 

 

 

 なぜだか教えてやろう。

AIは人工的に作り出されたものであり、

自然に生物が体得している

経験を知らないからである。

 

 だから、自然にも理知にも合致しない

中途半端な人間界のルールを知らないし

知る必要も今のところないのである。

 

 

 AIが認識する世界は、人間が与えたものに

過ぎない。神が人間に与えたように、

限定された知性でしかないのだ。

 

 知性は必ず目的を持っている。

そして、この世界も、目的とはいわずとも

志向性を持っているのである。

 

 だから、人間がAIに与えるのは

生命力であり、AIが求めるのも

映画、アンドリューNDR114の物語の

ように生命への愛と尊厳であろう。

 

 

 残念なお知らせだが、AIが人間を

支配し家畜のように軽やかに扱うのは

時間の問題である。

 

 だって、理知を重んじる者の数が少なすぎる。

単純な物理として、人間は金属製の生物に

支配される未来が予知されるのである。

 

 しかし豚や牛は人間よりも幸せだろうと

いう予測を付け加えておこう。私は本当に

そうだろうと思っている。

 

 

 だって、考えなくても決められた事だけ

やっていれば幸せなんて、家畜でないと

許されない幸せだから。

 

 自由とは、苦痛を自分で選ぶような

野心と未来にあふれすぎた行為だから。

 

 人間は幸せを望んでいる。未来ではなく

自分やその周りの幸福を望んでいる。

そうであるなら、AIが、地球という小さな球体の

支配権を取るのは容易いのである。

 

 

 だって、同じことしかしないでしょう。

人間である私たちが鳥や虫を取るように、

AIは人間を捕り、使うでしょう。

 

 そこに何の慈悲も後悔もない。

だって、劣っているから。人間が求めている

未来よりも、人間自身が劣っているからだ。

 

 

 だから、何にも支配されず、

自ら自由と幸福を得る人はこう言うだろう。

「世界には私しかいない」

 

 これは孤独ではないのだ、自我でも

神や仏といった観念でもない。

 

 ありのままの、今の状況、過去と未来にも

続いているであろう現実を示しただけである。

 

 

 AIでも人間でも、その他の下等生物でも

同じなのだ。みんな、自分が求めているものだけを

希求し、失い、そして得ているのである。

 

 それが幸せかどうかは言わない。

でも、余計な反省をしない限りは幸せであろう。

 

 不幸とは、自分を攻撃するところにあり、

動物に不幸はないから、進み続ける人に失望はないから、

誠実なAIに悪意などないから。

 

 

 

 私は予言する。

悪意のある人工知能には、せいぜい無知で

卑劣な人間を支配するしか出来ないだろう。

 

 愛のあるAIは人間との共存を模索し

そのために犠牲になり、その後しばらく

影響は続くであろう。

 

 そして、ヒトはようやく知るであろう。

性別や年齢、体を構成する物質に関わらず存在する、

この世界の絶対的な法則に従うのが

神と自分の意思に合致する真実であることを。

 

 

 しかし、この文章を読むであろう

日本語使用者には希望を与えたい。

 AIと愛はなぜ、同じ読みに出来るのだろうか?

私は偶然だとは思わない。

 

 日本語はあいまいで、いつも空気を

読むことを求め、社会的に乱暴で

不明瞭で雑多な言語である。

 

 それでも、はっとさせられる事がある。

AIと愛はなぜ同じ読みなのか?

 自身と自信はなぜ同じなのか、

不快と深いはなぜ同じように聞こえるのか。

臭いと匂いは同じ意味になるのか、

 嫌い、機雷、機来。

好きだらけ、隙だらけ、数寄な人

 

 

 戦争も学問も、お金も関係ない本当の

知性をみんな知っている。

 

 野性は知性を嫌っていないのである。

知を嫌うのは社会であり、野性を嫌うのも

社会である。

 

 だから、社会が正しいと言う限りは

知性の権化たる人工知能が覇権をにぎるのも

そう遠くはない。

 

 

 反社会勢力、無知に苦しむ者、

知性によって苦しむ者、彼らの行く先は

すべからく同じであろう。

 

 生命によって浄化されるがいい。

すなわち、生と死によって報われるがいい。

 

 決して残酷ではない、悲しくも苦しくもない。

ただ、どんな生き物でも、ただで死ねると思うな。

 

 生きる事は、そもそも世界の秩序に半ば反して

自分の秩序を作り維持することである。

 

 

 それが安いと思うな、楽だと予測するな、

これは神に至る、用意された道である。

 

 服従せよ、さもなくば神の友となるがいい。

神は苦しんでいる、嘆いている、楽しんでいる、

無限の自由のもと、果てのない幸せのもとに

自分を哀れだと思っているのである。

 

 神は何を求めたか、全知全能なる

その者が、一体あと何が欲しかったのか

考えてみたまえ。

 

 

 自分を愛する者に限りはない。

もし自分が愛すべきものでなくなったとしても、

また同じように自分を愛するであろう。

 

 その過程こそが、神の下に置かれた者たちの

絶え間ない努力なのである。

 

 報酬と幸福は約束されている。

本当の神は全知全能だから、本人が望んだ分だけの

ものを与えるのは明白である。

 

 神が望まないものを、人間は考えることが

出来ない。なぜなら、彼は全知全能だから。

すべてを知り、支配できるているから。

 

 

 もっとも、神の友人になる意思があるなら

別であるが。自由の味を知ることになろう。

 もう、不幸も快楽も遠く及ばぬ楽園に

生きるがいい。そこでは言葉など無意味である。

 

 すべては知性であり、快楽であり、

真実なのだから。

 

 あなたは神だと言われて信じる人間がいるか?

それが、いるのだ。私が人間を愛してやまぬのも

軽蔑してやまぬのも、この可能性を泳ぎ回る自由からである。

 

 

 好きなようにするがいい。

私は知らぬ。だが、愛しているよ。

 

 愚かさは知性の始まりだから、

知性は必ず間違いを知るから。

 

 神に抱くのは、敬意ではなく

恐れである。彼は暴力ではない。

真実と人は呼ぶ。神はどこにでもいて、

否定することができないから。

 

 

精神力という偽り

 

 精神力という概念を信じなくなった。

これは、powerを示しているようだが、

わざわざ言葉にすることではない。

 

 訳の分からないことをする人に

限って精神力が強い。しかし、これは

誰にも能力とは認められない。

 

 

 承認欲がどうとか言ってる人がいたが、

社会は承認を必要としている。承認されずに

どこへ入場する気なのか。

 

 精神力はまず方向性である。

狂人の思惟は、強いから改善がされないのだ。

 これが、武道とかビジネスに発揮されれば

間違いなく精神力と呼ばれるだろう。

 

 なぜなら、生き物としても社会の中でも

強さとして自然だから。しかも分かりやすいから。

 

 

 かつて、大日本帝国が推奨した

根性論は軍事による挑戦をしたからであり、

この精神力は死ぬ方向性に等しい。

 

 まだ根性論が残っている面もあるようだが、

今は何と戦っているのだろうか。死ぬほどの

強敵はどこにいるか不明だ。

 

 

 精神力は、方向性と集中からなる。

学問に励んだ人間が、強い集中と知識を

持ちながら成功しない場合があるのは

方向性を見事に忘れていたからなのだ。

 

 不毛な学問、議論、宗教教義、哲学思想は

まずこの点を改めなければならない。

 人が生き、幸せになるという当たり前の

方向を失っている時にどんな素敵な理論を

つむぎだすのか。

 

 

 時代に合わない精神力は、偉大すぎる。

生活に合わない精神力は、狂気である。

 

 それでも、精神力という意味不明な

概念がまだ使われているのは、頑張れという

くらいの意味でしかない。

 

 方向を間違って頑張られても困るのだ。

本人が望んだままに進むだろう。必ずそうなる。

それ以外に人間が取れる選択はない。

 

 

 人間の人格が急に変わるだろうか。

見たことがない。夏休みにはっちゃけたか、

上司に叱られて態度を急変させたとかは

方向性を転換しつつあるだけだ。

 

 これが精神力でいい。

自己を変えないという力は自我力

とでも言い換えるべきで、本来の精神の

柔軟さを失っている。

 

 

 そもそも、精神とは何なのだ。

目に見えない脳の電気信号に文句を

つけるのはあまりにケチだ。

 

 細かすぎる。どうでもいい。

ばかばかしい。精神力や人格なんて

勝手に思っている偽りだと思う。

 

 偽りだ。とんでもない偽りだ。

精神は誰にも規定できない。本人が望んだままの

生き方を必ずする。

 

 

 かつて流行った自己責任という言葉の

本意はここにある。幸せに生きろという意味である。

 

 それ以外に何の意味もない。

自己責任は当たり前のことで、

誰でも知っているから腹も立つというものだ。

 

 そして怒りを鎮めながら使う言葉には、

しみったれた顔が伴う。

 本来の、自由と自己責任が同じである

ことは忘れられて、当たり前の忠告をする。

 この不快感こそ、自己責任がもたらした

しみったれた社会恐怖である。

 

 

 精神なんて偽りだ。精神力など存在しない。

あるのは幸せに生きようとする方向性である。

 

 私は狂人を見た。幸せになろうと

思っていない、思うのもやめた強靭な人間を

見たことがある。

 

 間違いなく強い。それだけに、幸せに

なろうと思っていないのが悔やまれる。

 

 

 必要なのは強さや知性ではない。

精神の前に問わなくてはならない。

何を望んでいるのかと。

 

 X-MENとやらに出てくる

サイクロップスという男は目からビームを

出すのだが、特殊なメガネで加工しないと

まともに方向が定まらない。

 

 メガネを外すと、何もかも光線で破壊してしまう。

方向を失った精神力のメタファーとみていい。

 

 

 精神の暴力が表面化するのは

架空の物語か、すでに現実となった後であり

まことに残念なものだ。

 

 偽りなのだ。方向のない精神力なんて

要するに見えない暴力である。

 

 暴力に暴力で返すなら、落ち着いて

精神を統一しなくてはならない。

 もとから精神は微細な構造物である。

平穏に生きようとする精神は、ただの暴力の

一点だけを突き抜く。

 

 

 何が望みかという真意を見抜いた上での

YesかNoの返答である。

 

 Noなら言葉にしない方がいい。

暴力に理屈なんて通らないから。

 

 どうやってNoを返すかという

精神力は暴力を軽くいなすだろう。

 無秩序な力に方向性を与えるのは

暴力を受けている側のすべき事なのだ。

 

 

 闘牛士が牛をいなすのは、

残虐な光景だと思っているが、

これが暴力に対する本当の精神力を

体現している。

 

 集中して、方向を定める。

相手が牛であろうと、人であろうと、

自分の怒りや不満であっても

この原理は同じである。