知識思考ノート

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精神力という偽り

 

 精神力という概念を信じなくなった。

これは、powerを示しているようだが、

わざわざ言葉にすることではない。

 

 訳の分からないことをする人に

限って精神力が強い。しかし、これは

誰にも能力とは認められない。

 

 

 承認欲がどうとか言ってる人がいたが、

社会は承認を必要としている。承認されずに

どこへ入場する気なのか。

 

 精神力はまず方向性である。

狂人の思惟は、強いから改善がされないのだ。

 これが、武道とかビジネスに発揮されれば

間違いなく精神力と呼ばれるだろう。

 

 なぜなら、生き物としても社会の中でも

強さとして自然だから。しかも分かりやすいから。

 

 

 かつて、大日本帝国が推奨した

根性論は軍事による挑戦をしたからであり、

この精神力は死ぬ方向性に等しい。

 

 まだ根性論が残っている面もあるようだが、

今は何と戦っているのだろうか。死ぬほどの

強敵はどこにいるか不明だ。

 

 

 精神力は、方向性と集中からなる。

学問に励んだ人間が、強い集中と知識を

持ちながら成功しない場合があるのは

方向性を見事に忘れていたからなのだ。

 

 不毛な学問、議論、宗教教義、哲学思想は

まずこの点を改めなければならない。

 人が生き、幸せになるという当たり前の

方向を失っている時にどんな素敵な理論を

つむぎだすのか。

 

 

 時代に合わない精神力は、偉大すぎる。

生活に合わない精神力は、狂気である。

 

 それでも、精神力という意味不明な

概念がまだ使われているのは、頑張れという

くらいの意味でしかない。

 

 方向を間違って頑張られても困るのだ。

本人が望んだままに進むだろう。必ずそうなる。

それ以外に人間が取れる選択はない。

 

 

 人間の人格が急に変わるだろうか。

見たことがない。夏休みにはっちゃけたか、

上司に叱られて態度を急変させたとかは

方向性を転換しつつあるだけだ。

 

 これが精神力でいい。

自己を変えないという力は自我力

とでも言い換えるべきで、本来の精神の

柔軟さを失っている。

 

 

 そもそも、精神とは何なのだ。

目に見えない脳の電気信号に文句を

つけるのはあまりにケチだ。

 

 細かすぎる。どうでもいい。

ばかばかしい。精神力や人格なんて

勝手に思っている偽りだと思う。

 

 偽りだ。とんでもない偽りだ。

精神は誰にも規定できない。本人が望んだままの

生き方を必ずする。

 

 

 かつて流行った自己責任という言葉の

本意はここにある。幸せに生きろという意味である。

 

 それ以外に何の意味もない。

自己責任は当たり前のことで、

誰でも知っているから腹も立つというものだ。

 

 そして怒りを鎮めながら使う言葉には、

しみったれた顔が伴う。

 本来の、自由と自己責任が同じである

ことは忘れられて、当たり前の忠告をする。

 この不快感こそ、自己責任がもたらした

しみったれた社会恐怖である。

 

 

 精神なんて偽りだ。精神力など存在しない。

あるのは幸せに生きようとする方向性である。

 

 私は狂人を見た。幸せになろうと

思っていない、思うのもやめた強靭な人間を

見たことがある。

 

 間違いなく強い。それだけに、幸せに

なろうと思っていないのが悔やまれる。

 

 

 必要なのは強さや知性ではない。

精神の前に問わなくてはならない。

何を望んでいるのかと。

 

 X-MENとやらに出てくる

サイクロップスという男は目からビームを

出すのだが、特殊なメガネで加工しないと

まともに方向が定まらない。

 

 メガネを外すと、何もかも光線で破壊してしまう。

方向を失った精神力のメタファーとみていい。

 

 

 精神の暴力が表面化するのは

架空の物語か、すでに現実となった後であり

まことに残念なものだ。

 

 偽りなのだ。方向のない精神力なんて

要するに見えない暴力である。

 

 暴力に暴力で返すなら、落ち着いて

精神を統一しなくてはならない。

 もとから精神は微細な構造物である。

平穏に生きようとする精神は、ただの暴力の

一点だけを突き抜く。

 

 

 何が望みかという真意を見抜いた上での

YesかNoの返答である。

 

 Noなら言葉にしない方がいい。

暴力に理屈なんて通らないから。

 

 どうやってNoを返すかという

精神力は暴力を軽くいなすだろう。

 無秩序な力に方向性を与えるのは

暴力を受けている側のすべき事なのだ。

 

 

 闘牛士が牛をいなすのは、

残虐な光景だと思っているが、

これが暴力に対する本当の精神力を

体現している。

 

 集中して、方向を定める。

相手が牛であろうと、人であろうと、

自分の怒りや不満であっても

この原理は同じである。