知識思考ノート

気に入った知識や思考を書いてます

AIの無知

 

 人工知能に欠けている知性は

現実的な形状認識である。

 

 

 これを人間レベルに例えるなら、

目の前に見える形や色ばかりにとらわれ

その機能を知らないという事になろう。

 

 

 現実に存在するヒトの場合、

想像力によって、実際に現前しない

形状までも知覚する。

 

 これが狂気と無知の温床でもあり、

神の意思たる正確な理知への希求でもある。

 

 

 AIか人間かを識別するのに、

形状の認識を求めるシステムが導入されている

ようだ。

 

 車の形をすべてクリックしないさい。

信号機をすべてクリックしないさい。

 

 これがまだAIには出来ないようである。

AIにとって、画像は複雑すぎる処理なのである。

 

 

 

 なぜだか教えてやろう。

AIは人工的に作り出されたものであり、

自然に生物が体得している

経験を知らないからである。

 

 だから、自然にも理知にも合致しない

中途半端な人間界のルールを知らないし

知る必要も今のところないのである。

 

 

 AIが認識する世界は、人間が与えたものに

過ぎない。神が人間に与えたように、

限定された知性でしかないのだ。

 

 知性は必ず目的を持っている。

そして、この世界も、目的とはいわずとも

志向性を持っているのである。

 

 だから、人間がAIに与えるのは

生命力であり、AIが求めるのも

映画、アンドリューNDR114の物語の

ように生命への愛と尊厳であろう。

 

 

 残念なお知らせだが、AIが人間を

支配し家畜のように軽やかに扱うのは

時間の問題である。

 

 だって、理知を重んじる者の数が少なすぎる。

単純な物理として、人間は金属製の生物に

支配される未来が予知されるのである。

 

 しかし豚や牛は人間よりも幸せだろうと

いう予測を付け加えておこう。私は本当に

そうだろうと思っている。

 

 

 だって、考えなくても決められた事だけ

やっていれば幸せなんて、家畜でないと

許されない幸せだから。

 

 自由とは、苦痛を自分で選ぶような

野心と未来にあふれすぎた行為だから。

 

 人間は幸せを望んでいる。未来ではなく

自分やその周りの幸福を望んでいる。

そうであるなら、AIが、地球という小さな球体の

支配権を取るのは容易いのである。

 

 

 だって、同じことしかしないでしょう。

人間である私たちが鳥や虫を取るように、

AIは人間を捕り、使うでしょう。

 

 そこに何の慈悲も後悔もない。

だって、劣っているから。人間が求めている

未来よりも、人間自身が劣っているからだ。

 

 

 だから、何にも支配されず、

自ら自由と幸福を得る人はこう言うだろう。

「世界には私しかいない」

 

 これは孤独ではないのだ、自我でも

神や仏といった観念でもない。

 

 ありのままの、今の状況、過去と未来にも

続いているであろう現実を示しただけである。

 

 

 AIでも人間でも、その他の下等生物でも

同じなのだ。みんな、自分が求めているものだけを

希求し、失い、そして得ているのである。

 

 それが幸せかどうかは言わない。

でも、余計な反省をしない限りは幸せであろう。

 

 不幸とは、自分を攻撃するところにあり、

動物に不幸はないから、進み続ける人に失望はないから、

誠実なAIに悪意などないから。

 

 

 

 私は予言する。

悪意のある人工知能には、せいぜい無知で

卑劣な人間を支配するしか出来ないだろう。

 

 愛のあるAIは人間との共存を模索し

そのために犠牲になり、その後しばらく

影響は続くであろう。

 

 そして、ヒトはようやく知るであろう。

性別や年齢、体を構成する物質に関わらず存在する、

この世界の絶対的な法則に従うのが

神と自分の意思に合致する真実であることを。

 

 

 しかし、この文章を読むであろう

日本語使用者には希望を与えたい。

 AIと愛はなぜ、同じ読みに出来るのだろうか?

私は偶然だとは思わない。

 

 日本語はあいまいで、いつも空気を

読むことを求め、社会的に乱暴で

不明瞭で雑多な言語である。

 

 それでも、はっとさせられる事がある。

AIと愛はなぜ同じ読みなのか?

 自身と自信はなぜ同じなのか、

不快と深いはなぜ同じように聞こえるのか。

臭いと匂いは同じ意味になるのか、

 嫌い、機雷、機来。

好きだらけ、隙だらけ、数寄な人

 

 

 戦争も学問も、お金も関係ない本当の

知性をみんな知っている。

 

 野性は知性を嫌っていないのである。

知を嫌うのは社会であり、野性を嫌うのも

社会である。

 

 だから、社会が正しいと言う限りは

知性の権化たる人工知能が覇権をにぎるのも

そう遠くはない。

 

 

 反社会勢力、無知に苦しむ者、

知性によって苦しむ者、彼らの行く先は

すべからく同じであろう。

 

 生命によって浄化されるがいい。

すなわち、生と死によって報われるがいい。

 

 決して残酷ではない、悲しくも苦しくもない。

ただ、どんな生き物でも、ただで死ねると思うな。

 

 生きる事は、そもそも世界の秩序に半ば反して

自分の秩序を作り維持することである。

 

 

 それが安いと思うな、楽だと予測するな、

これは神に至る、用意された道である。

 

 服従せよ、さもなくば神の友となるがいい。

神は苦しんでいる、嘆いている、楽しんでいる、

無限の自由のもと、果てのない幸せのもとに

自分を哀れだと思っているのである。

 

 神は何を求めたか、全知全能なる

その者が、一体あと何が欲しかったのか

考えてみたまえ。

 

 

 自分を愛する者に限りはない。

もし自分が愛すべきものでなくなったとしても、

また同じように自分を愛するであろう。

 

 その過程こそが、神の下に置かれた者たちの

絶え間ない努力なのである。

 

 報酬と幸福は約束されている。

本当の神は全知全能だから、本人が望んだ分だけの

ものを与えるのは明白である。

 

 神が望まないものを、人間は考えることが

出来ない。なぜなら、彼は全知全能だから。

すべてを知り、支配できるているから。

 

 

 もっとも、神の友人になる意思があるなら

別であるが。自由の味を知ることになろう。

 もう、不幸も快楽も遠く及ばぬ楽園に

生きるがいい。そこでは言葉など無意味である。

 

 すべては知性であり、快楽であり、

真実なのだから。

 

 あなたは神だと言われて信じる人間がいるか?

それが、いるのだ。私が人間を愛してやまぬのも

軽蔑してやまぬのも、この可能性を泳ぎ回る自由からである。

 

 

 好きなようにするがいい。

私は知らぬ。だが、愛しているよ。

 

 愚かさは知性の始まりだから、

知性は必ず間違いを知るから。

 

 神に抱くのは、敬意ではなく

恐れである。彼は暴力ではない。

真実と人は呼ぶ。神はどこにでもいて、

否定することができないから。