知識思考ノート

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悪に実体はない

 

 本当に悪と呼べるのは

実体のないものである。

 

 貧困者が卑しい性質となり、

育ちが良すぎると人を見下すのは

避けにくい。

 

 しかし、これらの悪しき性質は

実際の状況から来ているもので、

本質的な悪と混同すれば、本人は

どうしていいのか分からず

更にエスカレートしかねない。

 

 

 本質的な悪とは、実体がないから

悪なのである。

 

 例えば、必要がないのに人を攻撃したり

すれば生き物のレベルで悪なのである。

 

 

 だが、こういった抽象的判断を

正確に行える人は少ない。

 よって罪を憎んで人を憎まずと、

実際の行い自体を非難するのが最も

間違いをしない。

 

 そこから、偽善者と悪人なら

前者の方がまともであると言えるのである。

 

 

 間違いを行うものと、間違いをうわべだけ

でも無くそうというのは、どちらがマシかは

言うまでもない。

 

 悪人は自分に正直に生きていると言ってのける。

確かにそうかも知れない。だが、間違っている事を

なんとも思わないのも認めているのだ。

 

 人間的事実はいつも間違う。

気分の揺れによって、ちょっとした誤解によって、

自然の事実を否定することによって。

 

 

 社会を信じている者は間違う。

社会は従ったり、変えていくものであって、

信じるべきではない。

 

 信じるべきは当たり前の事実である。

どんな考え方をしても否定できないもの。

 

 

 そこから、暴力が真実であると

導き出す者がいる。これは一理ある。

 

 瞬間的な現実として、暴力は否定が

できない。それでも、野獣ですらこういった

判断はしない。

 

 生きるという行為は、自己保全と生殖から

成り立っており、どちらを優先しようとも

暴力が真実とはならないのである。

 

 

 策略や社会と、暴力が結合した時には、

極めて不安定な状況が出来上がり、

まったく生存と生殖には合致しない。

 

 宗教戦争が極めて醜いのは、

実体がない思想の争いが続き、

結局は暴力で決着をつけるという

生き物としての悪の極みだからである。

 

 平和への願いは宗教以前に、

普通の生き物としての希求で、そこに

思想はないが実体はある。

 

 

 とにかく、悪と呼べるのは実体のない

ものでしかない。

 

 そこから、祈る行為が出てくる。

暴力も社会も知性も解決できない問題に対しては

祈ることしか出来ない。

 

 1900年代のある優秀なキリスト教伝道師は、

これを絶えず祈ると表現した。

 

 

 平穏な生活を送ること自体が、絶えず祈る

行為なのだと言った。

 

 祈りを誰にどうやって捧げるかは全く

問題にしていない。ただ平穏に生きるのが

いいですよと伝えたかっただけだろう。

 

 神や正義のもとで間違いを犯すものには、

絶えず祈らなくてはならなかったのだ。

 

 

 思想の争いに終わりはない。

アサシンも戦闘員も思想から生まれる。

 

 自然にいるのは、ただのハンターである。

どこにでもいる、生きる事を目的とする

狩人である。

 

 人間を農耕種とか狩猟民族とか分類する前に、

ただ生きていることは忘れられている。

 

 

 宗教が生きる手段であるなら、狩りを

やめて祈らねばならない。

 

 しかし、宗教権威に頼る者はこれを

忘れている。祈りを失った哲学や宗教には

間違いが含まれ、いずれ暴力となる。

 

 権威は暴力の精神化なのを知らないのである。

信じてはならない。祈りを忘れた教義や

平穏を失った人間を。

 

 

 それを信じて損をし、殉教までして浄化する者を

天使や仏と呼ぶのである。

 

 尊敬に値するか、有難い存在か、それは

人間が判断することではない。彼らは天界のために

生きたのだから。

 

 決めるのは天界であり、人間はその偉業に

対して否定できぬ判決を受けるのである。

 

 

 人間が人間として生きる事に罪は無い。

実体なき悪が実体なきものにより滅びるだけである。

 

 人が天界を考えることは出来ない。

現実として、知らないうちにその罰と恩恵を

受け取るだけなのだ。

 

 実体がないのと存在がないのは違う。

普通の人間は実体を求め、本物の悪や善は

実体のない存在を滅ぼしまた創造する。

 

 

 祈りや平穏な生活は、これら

人智を超えたものから恩恵を受けるための

最善の手段である。